障害者手帳は役に立つか?
2020-07-13


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私は子供の頃から生き辛さを感じ、苛めや仲間外れにも遭い、小学生の頃から人生を悲観していた。
学業成績が良かったからか「がり勉、がり勉」と言われたが、がり勉はしていなかった。
方言を話さないことで気取っていると思われていた気もするが、方言は話さないのではなく、理解は出来るが話せない。

学童絵画展や版画展では入選や特選にもなり、読書感想文コンクールは中学で市のコンクール入選、高校では県の二席になった。
中学の弁論大会では文章が上手かった為に毎年クラスの代表に選ばれ、発表する声が小さくて票を得られなかったが、初めてマイクの使用が認められた3年時には全校1位になった。
夏休みの宿題で手芸の着せ替え人形を作ると、数学教師から「生まれた子供にあげたいから千円で売って!」と言われた。
体育は苦手だったが、その他の大半のことは人並み以上にできた。
けれど、人生は全く楽しくなかった。

一番つらかった中学2年の頃、修学旅行の翌日から突然クラスの女子全員に無視されるようになり、クラス担任は、ただ「貴方が置かれている現状は知っているけれど、どこかにきっと貴方を分かってくれる人がいるから」と言っただけで、私の話を聞いたり寄り添ったりは一切なかった。ほぼ放置され、取られた対策は、3年時のクラス替えで、2年時の同級生が2人しかいなかった事か。一応は教員間で話し合いが持たれたのかもしれない。

小学校から高校までの9年間、信頼でき、寄り添ってくれた先生はいなかった。いじめや不登校などが問題となるずっと以前のことで、先生達も対応が分からなかったかもしれない。親にも話せず、自分は何故こうなのかと、自身を責めるしかなかった。
大学に入っても、女子学生とはあまり話が合わなかった。むしろ、男子学生とのほうが宇宙やSFの話で盛り上がった。

奨学金を得るために教育学部に行ったが、教員採用試験にはなかなか合格できず、私学で非常勤講師をしていた際には、採用試験当日の課外授業を押し付けられるという妨害もあった。
大学の指導教官の紹介で他県の私学の採用試験を受け、そこでも、生徒たちは慕ってくれたが苦難の連続。県の採用試験に合格して高等学校教諭になってからも、苦難の連続。好意を寄せる人が現れても、「(月)さんは真面目だから自分には合わない」と断られた。

私は、極若い頃には失敗も多かったが、失敗に学び、経験を積み、責任の重い多くの仕事をこなした。付箋に処理すべき仕事を書いて机の目の前に並べ、済ませると剥ぎ取って、分刻みのスケジュールもこなした。傍目にはキャリアウーマンに見えたかもしれない。
目の前の事だけで精一杯なだけだったのだけれど。

パワハラや過重労働に耐えきれずに退職し、その後、請われるままに長期出張代替や産休代替、病休代替と、各地各校で講師をした。それに対応できる知識と技術と資格があった。
そして、認知症となった母の介護の為、慰留を断って仕事を辞めた。
仕事を辞めたとたん、それまで親しくしていたつもりの人間関係は一切失われた。

私は何に為に生まれてきたのか。母親の介護をする為なのか。

要介護5となった母が漸くグループホームに落ち着くことが出来、私は発達障害の診断を受けるために精神科を受診した。

障害者と呼ばれたいわけでは断じてない。
私は色々なことが、周囲の人と同等かそれ以上にできる。けれど、生まれながらにして、健常者と呼ばれる絶対多数の人達とは違っているらしいと、大人になって分かるようになっていた。それを障害と呼ぶのかどうかは別にして。

大人の発達障害を診てくれる病院は少なく、私が受診した精神科の担当医も、発達障害の専門医ではなく、認知症の専門医のようだった。けれど、その先生は、私の話をしっかりと聞いてくれ、こうも言ってくれた。


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