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私は、幼い頃から辛いことが多かった。幼いゆえに理由は分からなかった。
動作が遅く声が小さく痩せていて体力もなかった。頭痛や腹痛にも悩まされた。
女の子たちの遊びであるオジャミ(お手玉みたいなの)や綾飛び(ゴム飛びの変形)は出来なかったし、ボールを投げてもヒョロヒョロ、走るとビリだった。
それは、自閉症という発達障害のせいで、脳と体の連結が上手くいかなかった為らしいと、最近になって知った。
小学校の昼休み、流行りのドッジボール遊びに入れてと声を掛けても
「え~~↑~( ̄д ̄)」とあからさまに嫌な顔をされた。戦力にならないから。
仕方なく、毎日図書室に通った。
田んぼに落とされた。墨汁を掛けられた。
中学校2年は苛めや仲間外れで毎日が針のムシロ。担任も何もしてくれない。
高校でも1、2年の頃は似た状態になった。
全クラス強制参加の合唱コンクール責任者が決まらず、帰りの会が終えられずに膠着状態になり、仕方なく私が手を挙げた。けれど、練習場所や時間の確保に悩む私に、クラスの皆は文句しか言わなかった。TVドラマや漫画なら、必ずヒーロー的な男子が助け舟を出してくれるけれど、誰も助けてくれなかったし担任もほったらかしだった。
中学校も高校も、3年生ではクラスメイトに恵まれたことがせめてもの救い。
大学では、苛めには合わなかったが、寮の同室の先輩に「going my way」と称され、それは良い意味ではなく悪い意味だったから、なぜそんな風に言われなければならないのか分からなかった。
私はいつも周りに気を使っていた。ただ、集団で慣れ合うことは苦手だっただけだ。
だから、四年生の先輩たちの卒業を祝う寮の追い出しコンパでは、無理して飲めない焼酎の一気飲みまでして、場を盛り上げた。それしかできなかったから。先輩たち大喜びで盛り上がった。翌日は二日酔いの頭痛で大変だったけれど。
大学の指導教官に言われた。
「(月)さんはいつ怒るの? 怒ることがあるの?」
私は、感情を荒らげることはしなかった。どんな事があっても。
私には支えてくれた2つの言葉がある。
1つは、今年の3月に亡くなられた、敬愛する宮城まり子先生の言葉。
「やさしく、やさしく、やさしくね。やさしいことは強いのよ」
この言葉は、強く印象に残り、私の支えとなった。どんな時でも優しくあろうと思った。そして、優しくある為には、強くあらねばならなかった。
中学2年生くらいの時、私は自転車に乗って買い物に行った帰り、バスから降りてきた老夫婦に声を掛けられた。
「Aサービスはどこですか?」
市内に不案内そうな、心細そうな二人だった。
「この橋を渡ってバス停2つ目です」
歩いて行こうとする2人に、私は声を掛けた。
「同じ方向なので、良ければ一緒に行きましょうか?」
私は自転車を押し、老夫婦と一緒に歩いた。
Aサービスの前で、老夫婦は何度もお辞儀してお礼を言った。あの時の幸せな気持ちは今も忘れない。
宮城まり子先生の著書「ねむの木の子どもたち」は、父が会社帰りに持ち帰った。購入したのか、誰かに貰ったのかは分からない。父は、障害者教育に関心がありそうもなかった。
私は夢中で読み、映画も見に行った。「続・ねむの木の子どもたち」も読んだ。将来は障害児教育を目指そうと思った。
2つ目は、米沢藩を再生させた上杉鷹山の言葉。上杉鷹山は、米沢藩主上杉家の養子となる前の生家は日向高鍋藩主秋月家だ。
「為せば成る、為さねばならぬ、何事も、成らぬは人の成さぬ成りけり」
私は、この言葉を座右の銘とした。
人に優しくあること、諦めないこと、私はこの2つを胸に頑張った。
それに、頑張るしかなかった。
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