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アカウミガメの産卵地になっている宮崎県日南市の海岸で、市の保護施設でふ化したカメの赤ちゃんが8月4日朝、海に放流された、というニュースを見た。
今シーズンは、これまでにおよそ4800個の卵が保護され、4日朝、このうちの40個がふ化しているのが確認されたという。
私が生まれ育った町の砂浜でも、毎年アカウミガメが産卵し、ふ化したカメの赤ちゃんが海に帰っていくのを見たこともある。
私の両親は、私が生まれた後も何度も引っ越しをしたのだが、ずっと海岸のすぐそばだった。遊泳禁止の海だったから泳ぎはしなかったけれど、砂浜と松林は、幼い頃から高校時代まで、ずっと私の遊び場であり、唯一の居場所でもあったと思う。
波打ち際は砂が濡れて引き締まるので歩きやすいが、松林を出て波打ち際まで、砂丘を2つも超えて歩くのは、けっこう大変だった。草履の下で乾いた熱い砂がずれるので、一足ごとにバランスを保たなければならない。夏の砂浜は火傷しそうなくらい熱かった。歩きやすい波打ち際に早く行きたくて、私は砂浜を草履履きで走った。
私が小学校低学年の短い間だったが、父が犬を飼っていたことがあり、夕方には犬を連れて家族で浜に行った。私は犬と一緒に浜で走り回った。
当時は薪を燃やしてお風呂を沸かしていたので、夕方には毎日のように、浜辺に流れ着いた焚き物を拾いに行っていた。ごく細い枝や木の皮が集まった物は、ガランコと呼んで焚き付けにしていた。大きな焚き物は父や母が運んだが、幼い私はガランコをたくさん集めて運んだ。
私は運動音痴で(今から思うと、たぶん自閉症のせいで脳と体がうまく繋がっておらずに、思うように体を動かせなかったのだと思うが)、ボールを投げてもヒョロヒョロで、走るとビリだったのだが、クラスで一番の俊足の女子に勝ってテープを切ったことが一度だけある。学年末のお別れ遠足は毎年、浜で行われて、宝探しをしたり、ビーチバレーをしたりするのだが、その年は砂浜での徒競走だった。当然のことながら砂に足を取られて上手く走れない。でも、砂浜で毎日のように走り回っていた私の足は慣れていたから、よろめきもせずに一番でゴールしたのだ。その俊足の女子も、私同様に浜育ちだったのだが、友達も多く、スポーツ万能だったから、私のように砂浜で一人走り回ったりはしなかったのだろう。
中学や高校になると、家族で浜に行くことはなかったが、友達の少なかった私は、学校から帰宅して夕方になると、毎日のように松林と砂浜に一人で遊びに行った。日曜日や春休みや夏休み、冬休みさえ、時間があると松林と浜に行った。
松林は、大きく育った松の木の間隔が広く、苗木が植林されずにいたので、木漏れ日のさす下には黒松以外の様々な木や草花が育っていて、私はそれらを発見するのが楽しくて、松林の中をずっと遠くまで散策した。獣道のような細い道も全て把握し、どこに何の木が生え、どんな花が咲いているか、自分の庭のように把握していた。
波打ち際では、歌を歌って貝殻を拾いながら、南は潮汲み場といわれる施設がある所まで、北は干潮時には砂浜で陸続きとなることもある河口まで、歩いた。
今の時代では信じられないかもしれないが、女の子が一人で松林や砂浜に行っても、危険だとは思われていなかった。
小学校4年生の夏休み直前、水泳大会のあった日の夜、私は40度の高熱を出し、受け入れてくれる病院が一つもなく、唯一受け入れてくれたN医院という小さい医院に入院した。肺炎と言われたが、今のような良い薬はなく、点滴をした覚えもない。病室の窓から見える向かいの家の屋上に、柱サボテンが植えられていて、黄色い花が咲いていたのを覚えている。
2週間の入院中に2つの台風が直撃した。台風後、肺炎はあまり改善せず微熱が続いていたが、学校は夏休み中なので自宅療養することになり、退院した。
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