大人はいつも頭ごなしだった
2020-09-28


私には物心ついた頃からの詳細な記憶が、映像と音声でビデオのように鮮明にある。
宴会や会議での会話や日常の会話も、音声付き映像で脳内で再現できるし、TVや映画も、暫くの間は脳内でほぼ再現出来て、その事を特別だとは思っていなかったけれど、十年くらい前、もしかして私の記憶力は普通ではないのかもしれないと気付いた。

膨大な記憶というのは、全く役には立たない。フラッシュバックに苦しむだけだ。
眠れない夜は特に困る。
多くの人が時間と共に忘れていく気まずい記憶も、私は記憶が薄れることがないので、目の前の相手がすっかり忘れていても、私の胸にはその人に辛い思いをさせられたことが刻まれている。相手に合わせて忘れた振りでもしなければ、社会生活も難しい。

大人は、幼児の頃は物が分かっていないし、記憶はすぐに薄れて忘れてしまうと思っているようだけど、私には、2,3歳頃からの記憶がある。幼児は、ただ表現して伝える術を持っていないか、その術が拙いために、幼児がまるで何も考えていないかのように大人は誤解するのだ。

私が初めて知った哀しみは、3歳くらいの事だった。
当時の私は、父の勤める会社の社宅アパート南8棟の西端2階に住んでいて、アパートとアパートの間には広い緑地があり、小さい子達はその片隅でママゴトなどして遊んでいた。他の子達は、赤や青や綺麗な色で塗装されたブリキの台所セットなどを持っていたりした。私は今もそれを鮮明に覚えている。
その中の一人が、同じアパートの最上階に住んでいることが分かって、私は翌日に一緒にママゴトして遊ぶ約束をした。私のママゴト道具は、姉のお下がりのオレンジ色のプラスチック片手鍋の折れた持ち手を絆創膏でつないだものや、母の資生堂化粧品の空きビンなどしかなかったけれど、それらを古いビニルのテーブル掛けに包んで抱え、コンクリートの階段を最上階まで登った。けれど、約束したのに、その子は遊びに行って居なかった。私は、次第にほどけていく包みを引きずって階段を下りたけれど、途中で、黒い蓋の白い資生堂の瓶が一つ、また一つ、包みから零れて落ちて、コンクリートの階段で粉々に割れた。
私は泣きながら自宅に帰りつき、「約束したのに居なかった」と訴えたのだが、母は「そんなことで泣かんでいいが」と言っただけだった。私の哀しみは分かって貰えなかった。初めて裏切りに会った哀しみ、みすぼらしくても私にとっては大事なママゴト道具が割れてしまった悲しさ、気持ちを母親に分かって貰えないもどかしさ。私が母親だったら、「辛かったね」と抱きしめてあげるのに。

5歳の頃、深夜過ぎに母に起こされ、「じいちゃんが死んで、ばあちゃんが、おーい、って呼んだからばあちゃん所に行くよ」と言われて、父の運転する軽自動車で祖父母の家に行き、それから後の約1年間は父の実家で暮らしたのだが、幼稚園に入る直前、説明会に行った母が、近所で同じ幼稚園に通う女の子の名前を教えてくれた。
「ア○○○ミ○○ちゃん、ア○○○ミ○○ちゃん」
私は、その名前を何度も声に出して覚えた。今も覚えている。その子の顔も覚えている。

母がその子の家に連れて行ってくれて、私はすぐに場所を覚え、翌日に一緒に遊ぶことになった。母は、迷惑をかけるから家には上がらずに外で遊ぶことと、夕方4時には絶対に帰ることを約束させた。
私は、母に言われた通りに、ミ○○ちゃんと庭で遊んだけれど、時間が気になって仕方なかった。外では時間が分からない。
「小母ちゃん、4時になった?」
「まだなってないよ」
けれども、暫くするとまた気になった。
「小母ちゃん、4時になった?」
「まだなってないよ」
どれくらいで4時になるのか分からない私は、気になって気になって、また訊いた。
「小母ちゃん、4時になった?」
「なってないて何回言えば分かるとね!!!」
私は小母ちゃんに怒鳴られ、怖くてすぐに帰宅した。


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